オウム雑感

 麻原彰晃こと松本智津夫被告の顔がテレビ画面に毎日のように半年間も映し出されたのは4年前のこと。依然として被告の裁判は続いており、地下鉄サリン事件は国際的にも希有なテロ事件として注目を集める結果となった。事件発覚当時、次々と暴き出されるオウムのテロ準備活動に肝を冷やし、また異様なコスチュームに実を固め、修行と称する儀式を通して信仰の道に入ろうとしている若者たちの集団に眉をひそめたのも記憶に新しい。

 最近また教団の活動が活発になりつつあるとして、マスコミはその一挙一動を報じているが、その後も布教活動を続ける信者達を私たちはどう理解すればよいのだろう。オウムに対するマスコミの対処の仕方、あるいはオウムが本拠地を構えたがっている地域住民の拒絶態度にはかなり宗教アレルギー的反応が見られるような気がしてならない。

 確かにオウム事件は他の新興宗教事件の被害などには比べものにならないくらいの衝撃を与えた。だが、事件には関わりのなかった信者達、あるいは事件後に入信した信者達にその罪はあるのだろうか。彼らは単に心の平安を求めてオウムの道を選んだにすぎないのではないだろうか。門外漢の私にはなんとも解せないが、松本智津夫被告が逮捕された現在も、信者にとっては信仰の対象として教祖の地位を保っているという。

 「前途ある若者達が..」とよく言うが、若者達に前途を与えられたオウムにはなにがしかの魅力があったに違いない。オウムの活動に危惧を抱き、弾圧とも言える活動をしている人たちの気持ちも分からないではないが、集団で頭ごなしにオウムが来てはいけないと決めつける人達には、オウムに変わる信仰心を持ったり、子供達に信仰に値するものを与えることが出来る用意はあるのだろうか? オウムの世界より遙かに素晴らしい世界があることを教えたり、提供できたりする努力をしているのだろうか?いじわるだがそんな問いかけもしてみたくなる。

 宗教集団に対する弾圧が、なんの解決にもならないことは歴史が物語っている。むしろ結束力を強めると同時に、一般民衆の無理解と弾圧に対する恨みから、信仰へのエネルギーが沸いて来るのが道理だ。信教の自由が憲法にうたわれているこの国での、こうした宗教弾圧に近い行動に、いじめや差別の本質を見ると言ったら言い過ぎだろうか?

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