デジタル化の功罪

 デジタルと言う言葉は、デジタル式の腕時計が売り出された頃から一般に知られるようになり、今やすっかり市民権を得てしまった。出始めのデジタル腕時計は、赤のLEDがまぶしく輝いていて、独特の数値表示が印象的であった。3万円以上はしていたと思うが、デジタル技術による量産効果によって、低価格化が進んだ結果、今では千円以下で購入できるようになった。
 デジタル技術の進歩はハイテク製品の低価格化に拍車をかけ、家電製品からOA機器はもとより、音楽CDに代表されるような録音物やビデオカメラなどの映像文化さえデジタル化されるようになった。しかも、「デジタル....」というと、正確でクリアー、高性能というイメージさえ浮かぶほどにデジタル技術は抵抗なく受け入れられるようになった。

 元々、計算機の世界から生まれたこの技術、当たり前だが数値データ、しかも2進法しか扱えない。音楽とか映像と言った数値以外のものを扱うには、データを一定の間隔で切り刻み、数値化されたものを処理し再構築することによって、元のデータを復元する作業が必要になる。切り刻んだときに失われたものは、近似的に補間される約束になっているが、見た目や耳には同じであっても、ひょっとしたら大事な何かが失われているのではないかという不安は拭いきれない。特に音楽とか、美術とか直接感覚器官に働きかけるものについては、デジタル技術の約束事の了解なしには語れないだろう。

 最近読んだ本に「CD音痴論を考える」冨田覚著(鹿砦社刊)がある。かつて朝日新聞の「論壇」で「CDに隠されていた欠陥」というショッキングな内容の論説を発表した著者と、反論を唱える和田則彦氏(作曲家)の間で激論が交わされたことがあったが、そのいきさつを交えて、音楽CDに疑問を投げかける著者の論理は、音楽のデジタル化に隠された部分を知る意味で一読する価値がある。

 音楽CDに必然的に起こりうる現象として、「ピッチのあいまいさ」を指摘し、それを立証しようとする著者の立場は、ハイテク技術に立ち向かう「ドンキホーテ」にたとえられているが、加速化されるデジタル技術に対して無批判なご時世、感性の部分にまでも侵入しつつあるこの技術に敢然と立ち向かう姿勢は、評価されるべきものであると思う。



戻る

powered by Quick Homepage Maker 4.81
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM