同窓会の落し物

 この正月、中学校卒業後35年目の同窓会があった。友人との再会は懐かしく、思い出話にお酒もたくさん入って二次会ともなると話は加熱してくる。趣味のゴルフの話から、はては環境問題にまで話が及んだ。ダム、火電、堰の問題になり、反対の立場をとらざるを得ない旨の話をすると、友人はやや語気を荒だてて、けしからんといった高圧的な口調で説き伏せようとする。私の反対意見が気に入らないのは仕方ないとしても、反対するなとばかりに私を攻撃する形で議論をふっかけてくるのには閉口した。

 さいわい、大きな口論にはならなかったものの、35年の歳月がそれぞれの立場や考え方を大きくかえてしまったことに、言いようのない寂しさを感じた。何にでも反対しているつもりはないが、自由な立場から考えると、現代社会にはどうしても反対しなくてはならない事が多すぎるのだ。私には反対する権利はあるし、それをじゃまだてすることは許さない気概もある。一介の市民にすぎない私が反対する事に、同じ立場であるはずの友人がかくも執拗に非難する事に驚いたが、まるで反対意見が存在する事自体がいけないかのような口ぶりから察するに、少なくとも友人にとっては許しがたい事であったのだろう。

 こうした反対意見に対する非難に出会うことはよくある。反対意見を聞くよりも前に、なぜ反対するのか、お上のする事に異論を唱えるのはまかりならんと、意地悪な質問による個人攻撃をしかけてくるやり方からは、自由に物事を考え発言する人間に対する嫉妬心からくる、いらだちのようなものが感じられてならない。どうしても事業をやらねばならぬ行政の担当者の言葉ならまだ許せるが、一市民が同じ立場の人間に対して言う意見としては、いささか常識を欠いている。むしろ行政へのアンチテーゼとしての反対意見は必要不可欠なものなのであるまいか。少なくともこうした批判精神なくして、まともな行政改革も何も出来るものではない。少しでも住み良い日本や徳島を願えばこそ、自由な立場の意見がもっとも尊重されるべきであると思うのだ。

 懐かしい同窓会、つかの間のタイムトリップ。共有する思い出の中に旧交を温め合ったが、同時に現実的な会話の中に、思わぬ距離をも感じてしまう結果ともなった。

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