君が代斉唱

 娘の高校の入学式のことだった。参列した学生や父兄による「君が代」の斉唱があった。全員起立して、ピアノによる短い前奏に続いて「き~み」と声を出したところで当たりの静けさに気づき、一瞬息をのんだ。確かに歌ってはいるらしいのだが、声が殆ど聞き取れない。結局、最後まで口もろくに開けずに、つぶやくように歌ってしまったのだが、多分1000人を越える人間の、ひそひそ話よりも遙かに小さい声での斉唱は何とも気味悪く、冷や汗も出たし、後味の悪い思いをしたものだった。

 歌には歌う人の心を一つにする力がある。同じ歌を斉唱することは、色んな場面で意識を統一させる効果がある。嬉しい時も、苦しい時にも歌を歌って、喜びや苦しみを分かち合うことが出来る。だが最近の日本では一斉に歌う環境や、歌いたいと思う人が以前より少なくなっている。 わらべ歌や民謡などの伝承歌は少なくなり、マスコミに乗り経済的にも成功した歌が、心を通じ合える歌として認識されるようになってきた。さらに、その好みは多様化し、世代を越えて歌える歌も少なくなった。個人主義が徹底した結果、それぞれの好みの世界を大事にするようになり、聞くときはウォークマン、歌うときはカラオケになった。カラオケになると大きな声も出るのだが、一斉に歌うような場面では声が出ない。ひそひそとしか歌えない人が増えると、大きな声で歌うのが恥ずかしく感じられ声が出なくなってしまうらしい。

 娘は、その後修学旅行で韓国に行き、現地の高校生と交歓会の場で、大きな声で誇らしげに歌う韓国の学生達をみて感動すると同時に、大きな声で歌えない自分たちの境遇に疑問を持ち、とても恥ずかしい思いをしたという。

 さて、このようなご時世に「君が代」の斉唱をせよといっても、どだい無理な話である。民主国家日本で「君が代」が素直に国民に受け入れられる事は難しいだろうし、大きな声で歌われることもないだろう。歌は心の現れでもあるし、直接的に心に働きかけるものでもある。歌いたい気持ちになる環境や、歌いたくなる歌がない事は悲しいことでもある。強制された歌に心が通うはずはないし、声が出るはずもない。歌いたい気持ちが沸いてくるような、そういう国歌があれば、大きな声を出して歌えそうに思うのだが。

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