読書感想文



 夏休みが近づき、書店の店頭に「読書感想文課題図書」と記された図書が並ぶと、小学生の頃きらいだった読書感想文の事を思い出す。読書が嫌いであったわけではないが、感想文を書かなきゃいけないと思うと、とたんに読む気がしなくなるのだ。正直に「この本はつまらなかった」と書けば叱られそうだし、やっぱりいいところを見つけて、そこを書かなきゃいけないのだろうと子供心に思った。どこかほめなきゃいけない、感動しなくちゃいけない、こんな気持ちで本を読むことは苦痛をともなう。提出日も押し迫り、拾い読みをし「ここは、こんなに感動した。」と、つい心にもないウソを書いたこともある。こんなことなら、作文のほうがまだましだな、とも思った。

 以前、ある県で中学生を対象にしたコンサートに招かれたことがある。演奏に先立って先生から静かに聞く旨の注意があり、そのあとで「きょうの演奏の感想を原稿用紙2枚にまとめて提出するように」とのお話があった。会場からは大きな溜息がもれた。これから聴くはずの音楽が、苦痛となりはじめている事は容易に推察できた。感想文の心配をしながら演奏を聞いても楽しめないだろうなと、演奏する立場の私もうんざりしてしまったことがある。

 本も音楽も読み手、聴き手の心一つで面白くもなり、つまらなくもなる。読みたいとき、聴きたいときに余裕をもって楽しむ事が出来ればいいのだが、教育の現場ではどうしても「良い本、良い音楽」を押しつけてしまう結果になりがちだ。

 感想文の教育的価値について論じるつもりはないが、感想文恐怖症の後遺症は小さくはない。読みたくない本を無理矢理読んで、でたらめな感想文を書いた苦い思い出はまだまだ消えそうにない。


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