旋盤

 念願の旋盤が手に入った。「センバン?」大抵の人はいぶかしがるが、工作の好きな私にはあこがれの機械だ。ゆうに三十年は使われてきたのだろう、油とほこりにまみれ、あちこちにはサビも出ているけれど、まだまだしっかりしていて、趣味程度に使うには充分だ。1トンもあろうかというこの鉄のかたまりを、友人の手助けでなんとか自力で運び込む事も出来た。

 鉄は堅く力強いイメージだが、その鉄を面白いように刃物でけずってゆく様は、見ていて楽しい。私の幼い頃は、身近にモノを作る人が今よりは大勢いた。道具を自在に操り、製品を作り出す熟練工の手先はまるで魔法のようだった。旋盤を回す音が絶えない鉄工所では、ゼンマイのような切子で遊んで手を切ったり、建築現場では大工さんのいないすきに、カンナをそっとさわってみたり、砥石でナイフを研ごうとして叱られた事もなつかしい。今は、建築現場で道具の手入れをしている大工さんの姿もめずらしくなり、鉄工所もコンピューター化され、若い人でも熟練工に負けないようなものを作れるようになった。

 けれど、戦後モノを作り続けてきた日本人の手はモノを作れない、というより作らない手になろうとしているのではないだろうか。

 製産に従事する人の数は減り、若者はもっぱら、口先と頭で仕事をしようとする。体験を通してモノ作りを学ぶ機会が少なすぎる。だから何か手先の仕事をやらせても捗々しくない。手先の器用な日本人と云われたのは過去の事なのだろうか。このままどんどんモノ作りを忘れて、手先の不器用な日本人になってゆくのは寂しい気がする。

 製産現場で働きたがる若者は減ったと云うが、モノ作りの喜びは、人間本来の欲求だ。日曜大工、家庭菜園などには損得勘定ぬきの喜びがある。油にまみれた、古めかしくも力強い旋盤を前にふとこんな思いがした。

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